チャーチルの夏、命輝くところ
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9月12日03年

チャーチルの夏、そこは命が輝くところ
 こうしてチャーチルでオオカミに出会った
(3)

  (その3)オオカミは、悪者か?

5日目、

朝、昨日と打って変わって快晴。
いつもの道をトラックで走る。永久凍土の平原も見渡す限り、緑に覆われている。ハドソン湾が朝陽に輝く。道端にいたカナダガンの家族も、草原の中でのんびりと陽を浴びている。

今日も、南で起こっている森林火災の焦げた匂いが、南風に乗って臭ってくる。今年は世界各地で森林火災が発生している。チャーチルでも、今年は雨量が極端に少なく、いままで水溜りだったところまでが干上がってしまっている。着実に地球温暖化は進んでいるのだろうか。

6時から12時まで、オオカミが現れないかとねばるが、犬たちの”ウォーン”という鳴き声だけが聞こえてくるだけだ。来るのが遅すぎたのか。

鎖に繋がれた犬たちは平和そのもの。毛づくろういをするもの、隣と吠えあっているもの、お腹を出して眠っているもの、オオカミの気配はまるでない。だが、どこかでこの光景をオオカミは見ているかもしれない。

昨日のオオカミと目をかわしたことが、脳裏に焼きついている。

オオカミは最大1000平方キロものテリトリー(なわばり)を持っていると言われているから、同じ場所に現れるはずがない。通常でも1日、20〜30キロメートルくらい移動すると言われている。今日は、テリトリーを移動中なのかもしれない。

それより犬たちは大丈夫だろうか?100頭近い犬を一頭、一頭チェックする。オオカミと犬の間には何も問題はない。"よかった・・・・オオカミは犬を捕食の対象としていないようだ。ブライアンに伝えよう”

風もないが、写真の材料もない。ゆっくりとコーヒー、りんご、チーズなどを、ハドソン湾を見ながらのんびりと楽しむ。この犬の飼育場には、3頭だけの犬が放し飼いになっている。それは、シロクマなど犬に危害を与える野生動物を追い払うためである。銃を持っていない時でも、犬を連れて行けば散歩ができる。ところが犬がほかのことに興味を持って、勝手に走っていってしまうと、それは困ったものとなる。危険なため、あわててトラックに戻るしかない。

いつかは銃も十分に扱えるようにしならなけばいけないかな〜。

日目、
朝、5時半起床。

ねばっても何も起こらない。
"野生動物の撮影とは、まあ、こんなものさ"

秋にシロクマの撮影に来ても、一日中、一度もシャッターを切らないこともあった。撮影チャンスは、1週間に1回くらいあればよいほうだ。

それに、昨夜は満月だった。満月の日には、人間の世界でも出産が多いし、先住民は普段と違う儀式をする。魚も満月の夜、産卵のためチャーチル川へ押し寄せてくる。
オオカミの行動にも何らかの影響はあってもおかしくない。彼らも気が高ぶり、夜中から朝まで動き回り、昼になると寝てしまっているかもしれないと、自らを慰め、何とかあきらめる。

一昨日までのオオカミとの出会いは、何だったのだろう。極北の澄んだ空気が、いろいろなことを思い出させる。

   *
小さなチャーチルにも、教会が3つある。極北の地でも教会は、心のよりどころである。

旧約聖書でもオオカミは、邪悪で、貪欲とみなされ、強いては破滅の源、悪魔の化身と書かれている。

新約聖書でも、「偽りの預言者に騙されてはならない。かれらは羊の毛皮をまとってあなたがたのもとに来るでしょう。でも心の中はオオカミなのだ」と言っている。

それに暗黒と野蛮な時代と言われたヨーロッパの中世では、オオカミを悪のシンボルに、祭り上げていた。中には、人間のした悪事まで、オオカミの仕業として殺した。飼い犬が、自分の飼っている羊を殺した場合も、オオカミが殺したと言って追いかけた。そのため、多くのヨーロッパ諸国では、野生のオオカミはすでに消滅してしまった。

日本でも「送りオオカミ」などと、オオカミは悪の代名詞である。

北アメリカにおいても、オオカミを忌み嫌う人たちは、あらゆる所にいた。その多くは、オオカミによる被害にあったことが理由ではなく、オオカミを憎む理由を何でもいいから自分たちの周りから探し出そうとする人たちでもあった。

自分の人生が思うようにならなかった人たちにとっては、憎む対象がオオカミでもなんでもよかった。それに、手付かずの荒野では、農業や、酪農をする人にとっては、見慣れないもは全て不安、邪魔か、恐怖の対象であった。

オオカミにとっては、昔からの縄張りを歩いただけなのに、新入りの人間にとっては恐怖となった。

森、木、野生動物など、すぐに役立たないものも邪魔の対象である。それに、作った野菜や家畜飼育に不都合があれば、その理由付けにもオオカミを殺した。むしろそれらを憎む言葉探しに明け暮れていたのだ。悪い答えは全てオオカミだ。

オオカミを殺すには、その生態学より炉端や井戸端での話題こそが、優先される。

昔、その話が祖父母から聞かされたことであっても、話すときは生き生きとした昨日の物語になる。何度となく繰り返されたので、話しても、少し前の出来事のようにいつも熱が入ってしまう。

オオカミの内臓までが、人にとってはすばらしい熱さまし、風邪の特効薬、便秘に効く、赤ちゃんにオオカミの牙をしゃぶらせれば、歯が生えやすいなどと言うことになれば、オオカミを殺す立派な言い訳となった。まさにオオカミにとっては、言いがかりだ。

その中でも、宗教がオオカミを悪の代名詞に祭り上げる余地を与えた影響は大きい。

キリスト教では、荒涼とした野生の地は、神がいない悪に満ちた土地を意味する。そこはまた、布教の場ともなるが、そこに住めるオオカミこそ、恐るべき生き物となる。布教をするものにとってオオカミは、かっこうの材料となる。そのためには、オオカミを消滅させることが、神への忠誠と利用されてもいた。

そこでは、オオカミこそ異教徒であっただろう。彼らが住む森を焼き払うことで、理性ある秩序への証とされていく。

農業や酪農を大きく営むようになると、オオカミは人間にとってプラスになる動物ではなかった。一度、農場に入り込み、家畜を殺したりすれば、オオカミの存在は明白である。

オオカミの眼から見れば、家畜は動きの鈍く自然淘汰されても可笑しくない生き物に過ぎないだろう。

オオカミは、人間が移り住む前から、存在していたのだから、どんな理由であれ殺したりしたりすれば、人間こそが猛獣と言えるかもしれない。人間こそ最も恐ろしいものである。

人間は、オオカミを殺す理由は何とでもつけられた。その中には、財産保護、安全保障、道徳的正義がある。

それは自分の人生の挫折感が理由であることもあった。まあ、言いがかり、こじつけ、時にはオオカミへのジェラシーでもあったのだろう。

 本来、オオカミは、その社会性においてはチンパンジーなどサルの仲間より、人間に共通している部分を多く持ち合わせているとの見方もある。悪の代名詞と言うより、オオカミは人間が失ったものを、見直すお手本かも知れない。 

 

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